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更新日:2018年12月3日

(11)台風第18号

(11)台風第18号(昭和57年9月11日~13日)

被害地域
県内全域(主に北信地域)
被害状況
人的被害(人):死者2/負傷37
住家被害(棟):全壊3/半壊13/一部損壊13/床上浸水2,022/床下浸水3,214

浸水も“床下と床上”じゃ“天国と地獄”だよ。

諏訪市K.Iさん(当時37歳・会社員)

 

昭和57年、そして翌年の昭和58年の水害には泣かされました。結局、降った雨が上流から諏訪湖に流れ込んでくる、出口は水門一つだけだから、はききれない、それがあふれて町のほうへ逆流してきちゃうわけなんです。諏訪市内の高台のほうから諏訪湖近くの低いほうへ引っ越して、まだ1、2年しかたってなかった頃でした。低い場所だなとは思っていたけど、まさか水がつくなんて思いもしなかったから、特に土台も上げませんでした。周りのうちはあげているところも多かったんですが…。うちが真っ先に水がつくから、バロメーターになってしまい、「あの家があのくらいなら、うちは大丈夫だろう」なんて見にくるものだから、参りました。実際に私のうちから4、5軒しか離れていないのに、ちょっと上に家があっただけで大丈夫だったんですから。

逆流の水害は雨がやんだ後にきます。私もその日は普通に仕事に行きました。途中、上川の水位がものすごかったから心配はしていたんですが、あれは夕方でした。水がどんどん増えてきて、ビニールに砂を詰めて土のうにして、必死で玄関のところに積み上げました。あとで「裏口から水が入ってくれば同じことだ」って近所の仲間に笑われましたが、もう必死。いよいよ玄関の土間まで水が入り込んできたときは「これはまずいかな」と思って、1階にある家具やテレビやピアノをとにかく2階へ上げました。ああいうときは、本当に「火事場のばか力」ですね。近所の酒屋からビールの箱をもらってきて、その上に畳を積み上げました。

とにかく床上浸水っていうのは悲惨。床下とじゃ「天国と地獄」の差です。たとえ1cmでも床上になっちゃうともうだめ。あとは20cmになろうが、50cmになろうが関係ないもの。道路にも腰くらいまで水がきたでしょうか。

一番困ったのは、トイレが使えないことでした。近所の、床下浸水で済んだ家に借りにいったりしました。それに水が引くまでは電気も使えないし、ガスや水道もだめ。水が引くまで2日ぐらいかかったでしょうか。水が引いたら引いたで、その後がまた悲惨。泥だけ残していくから、それをきれいに洗い流して乾かさなきゃいけなくて…。後始末だけで1週間くらいかかり、元の生活に戻るまで1か月ぐらいはだめでした。ずっとそこに住んでる仲間が、「水害は俺の子どもの頃にあって40年後にまたきたから、もうないだろう」みたいなことを言いましたが、何のことはない、翌年はもっとひどい水害。水に浸かると壁などに必ず跡がつくから、その高さを目安に畳を上げておいたらそれ以上に水が…。さすがに力が抜けてしまいました。

昭和58年の災害のあと、新築する人たちは家の基礎を高く上げているし、諏訪湖の護岸整備もされて、ポンプも設置されたから以前のようなことはないだろうと思います。とにかく地震やなんかと違って、水害は、そのときになってみないと何もできません。だから私のところも特に備えはないのですが、もしまたそうなったときは、かなり手際よく荷物を上へ上げられるんじゃないでしょうか。あと大事なのは、近所の人間関係。私も翌年には自分の家の荷物はさっさと上げて、若い仲間の連中と近所に手伝いに行きました。「それあっちだ、次はこっちだ」って。家族だけじゃとても荷物は上げられません。お互いに助け合うことが一番ですね。

 

教訓
伝えたいこと

災害の苦労を考えると、事前の準備はとても大切。
◆荷物の持ち運びなど、近所で助け合う人間関係はとても大切。

水が引き倒した墓石

更埴市K.Iさん(当時56歳・農業)

 

ここらは昔から大水の出る所だと、年寄りから聞かされていました。大雨が降ったとなると、子どもたちの仕事はまず下駄が流されないよう、鼻緒に縄をくくりつけること。天井からは大事な味噌樽や穀類が水に浸からないよう、高い所に持ち上げるための太い紐がぶら下がっていましたし、この集落の特徴でもある石垣積みは、明治からの水害の名残です。ですから、おかしな話ではありますが、普段から水害に対する心構えはできていたと思うのです。しかし、それがいざ現実となって目の前に水が迫ると本当に怖い。この台風で水の怖さ、そして失う物の大きさを身をもって体験しました。

土口では千曲川に流れ込むたくさん川の水門が閉まると、半鐘が鳴ります。あのときも佐久平地方でずいぶん降っていましたから、心配はしていました。そして、12日午前8時45分、水門閉鎖。そうなると川があふれ出すのは時間の問題です。私はすぐに長男の嫁と畑に向かい、定植したばかりのカスミ草の苗を掘り出し始めました。大水になる…と思ったときから、畑の収穫はもうだめだなとあきらめてしまいましたが、この花苗だけは大量に購入し定植したばかりだったので、あきらめきれなかったのです。でも、掘り出しているうちにじわじわ足元に水がしみてくるのがわかりました。柔らかい土は水を含んで重くなり、そのうち足が取られて歩きにくくなってきます。そうしたら「ここで転んだら、水にのまれる!」と急に恐怖心がこみあげました。後ろから追いたてられるように、慌てて家に帰ってきましたが、そうするうちに水は、確実に見る間に増えて家に迫ってきました。

つい先ほど走ってきた道に水があふれ、庭も濁流に沈んでしまいました。隣のビニールハウスにもどんどん水が流れ込み、「作物だけでなく、大切な花の球根もだめになってしまうのか」と、切ない気持ちで一杯になりました。当時、主人は区長をしていたので、前日から対策委員会に出たまま、当然家には帰ってこられません。相談したいことが山ほどあったり、重い畳を積み上げたりと忙しく、こんなときにはつくづく男手が必要だと感じました。川のようになった道路には手こぎボートが行き交い、平屋の家では屋根の上に避難し、救助を待っている方もいました。この日、急に高熱を出した2歳の孫を病院に連れて行くことになった嫁は、水の中をおぶって山に向かい、それから山を越え、千曲の土手に出たのですが、あたり一面水で埋まって真っ平らとなり、まるで海のようだったと言っていました。

翌日午前7時、水門が開くと水はあっという間に引けました。でも、元どおりの景色ではありません。近くの正応寺では墓石がひっくり返ったり、ずれたりしていて本当にびっくりしました。そして改めて、水の怖さを感じました。一方、大半の家が当時は井戸水に頼っていたため、濁った水しか出ない蛇口を恨めしく思い、水の大切さも痛感したものです。その後は、飲料水は県水に切り替えた家も多く、家を建て直す場合は土台を高くつくるという工夫も多く見られます。うちでも昭和59年の建て替えの際、土台を60cm高くしました。また、狭い小路だった道も、消防車やポンプ車が入ってこられるよう拡幅工事がされたりと、この災害を機に改善されたことが多かったです。

 

教訓
伝えたいこと

作物を気にして田畑に入るのは危険。水で重たくなった土に足を取られ動けなくなる。
◆道幅が狭く消防車やポンプ車が通れず、救助や工作に支障があった。

災害の後始末は辛い。

上水内郡豊野町N.Mさん(当時29歳・役場職員)

 

台風18号による9・11水害を経験して感じるのは、「役場を挙げて精一杯、対応した」ということです。だが、水が引いた後、町の職員が石灰を撒くなど消毒に各地へ出動する際、行く先々で「早くごみをかたづけろ」といった苦情の多いこと。文句を言われる職員も切ないのです。

水害は一過性のものでしたが、それでも道路の崩落、橋りょうの流失、河川では護岸の崩落もあり、床上浸水が100棟、床下浸水59棟でり災人員は615人。消防団による避難誘導もあり、全庁挙げての災害対策に取り組みました。あのとき、私は産業振興係におり、災害時は資材班・救出班に属し、土のうづくり。シャベルを使って袋に砂を詰める作業です。

家族は妻と2人の子どもがおり、家内の実家の須坂市に帰しておきました。その頃、町土地開発公社が造成した区画に家を新築したばかり。自分の家がどうなったかなど、見に行けないものですから、大工さんに「こたつを台に畳を上げて」と頼みました。翌日、家に帰って見ると、床上浸水。とても人が住めるような状況ではありませんでした。家具などの被害はありませんでしたが、もともと、この地域はいわゆる水害の常習地帯。ちょっと雨が降ると、いっ水する場所です。

当分の間、花見や祭りといった年4回開かれる組の会合では水害の話ばっかりでした。最近になって水害の話題も無くなりました。目に見えるかたちで災害復旧が行われているので、被災住民にも安心感が出てきたのでしょう。

災害のないとき、人は何気なく過ごしています。しかし、災害はいついつ、住民を襲ってくるかわかりません。豊野町では大事な物を入れておく緊急袋を各家庭に配布してあります。ふだんから、何があってもいいように準備しておきたいものです。

 

教訓
伝えたいこと

災害の後片付けはとても大変、みんなで協力して行うことが必要。
◆緊急袋など、非常時の備えを忘れないで。

 

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水害常習地を「おてんま」で克服

中野市T.Aさん¥(当時62歳・農業)

 

昭和57年8月の台風10号では、千曲川が増水し田畑が浸水、あと30mで住宅浸水の危機に直面、そのわずか1か月後の9月12日、東北信を襲った台風18号の影響で水位が昭和34年の洪水を10cmも上回り戦後最高を記録、千曲川は再出水。わが家は無惨にも住宅浸水、穂揃いと黄熟の始まった稲は壊滅、エノキ茸の瓶はものの見事に流されてしまいました。

水害はここで暮らす者の宿命と潔くあきらめ、はがれ落ちた母屋の壁を塗り替え、暮らしの立て直しを図ったのもつかの間、翌昭和58年9月28日、台風10号の襲来で、魔の洪水が闇にまぎれて集落に押し寄せてきたのです。29日午前5時、ようやく増水は止まったものの、あたりはまたしても泥の海。朝もやに包まれたその光景に、体中の血が消えていく思いがしました。昭和58年の水位は前年をさらに54cmも上回り181cm。わが家は1階の天井のあたりまで水がつき、あとわずかで2階まで水がいくところ、まさに記録史上最大の水害となりました。

昔からこの地域は千曲川がはん濫するたびに被害に泣かされる水害常習地でした。昭和34年の水害を契機に、近隣6部落が結束して防災対策の推進を市に陳情、市はこれを受けて関係部落と「千曲川防災対策委員会」を設立したのです。昭和38年、さまざまな水害対策案の中から会では「築堤」案を推進したが、「築堤は農民の命である農地を失うことになる、農地を守れ」といって反対する住民が現れたことで、築堤案は実現されないまま長い時が過ぎました。

しかし昭和55年になってようやく建設省から回答があって、翌昭和56年からの用地買収が開始されました。一部用地交渉が難航しているさなか、昭和57年8月の台風10号と9月の台風18号が来襲。2か月連続して起こった洪水が、皮肉にも当時暗礁に乗り上げていた用地交渉の突破口となって、交渉はにわかに好転、用地提供を渋っていた地権者が協力に応じてくれたのです。

それから工事は急ピッチで進み、7年後の昭和62年10月、大俣の住民にとって悲願の堤防が完成。延長1,240m、用地提供者64人、総事業費16億円、それこそ大俣集落の歴史上かつてない大事業となりました。

私は長い人生のなかで何度洪水にあったことか、そのたび家財が水浸しとなり、田畑が崩壊して流失しました。その試練を克服してきた者にとって堤防の完成はどれほどうれしいことか、筆舌に尽くしがたい感慨がありました。

この村では昔から「おてんま」といって、大変なときはみんなで助け合うならわしがあって、われわれはそのおかげでこれまで暮らしてきました。大俣はとてもいいところ、「住めば都」という言葉のとおり、現在家族6人、孫たちと幸せに暮らしていると、苦労したことや辛かったことは少しずつ記憶から消えていくような気がします。

 

教訓
伝えたいこと

ご近所が助け合う地元の風習に、どんなに助けられたことか。
◆防災対策は地域の住民が一体となって取り組む必要がある。

油断は禁物!整理整頓を心がけて

飯山市Y.Mさん(当時59歳・区長会長)

 

昭和57年9月12日午後1時、台風18号の影響で県下全域に降り続いた雨のため千曲川が増水、夕方までに警戒水位を突破するだろうとのことで、下木島公民館に本部が設置され、全消防団員が出動し、樽川堤防及び千曲川堤防の巡視と樽川古樋橋付近の作業が開始されました。70人の消防団員が炊き出しを食べるやいなや、夜11時、天神堂に火災が発生したため、急きょ消火活動に転向。その後も休む間もなく樽川堤防の防水作業に、消防団は真剣に取り組んでくれました。

当時私は木島地区の区長会長だったので、本部に詰めて防水資材の要請、有線放送で住民に避難準備の呼びかけ、市水防本部との連絡など声をからして行いました。

13日午前3時、堤防がいよいよ危険になり警鐘を連打して避難準備を呼びかけたものの、電気をつけて避難準備をする家庭は実に少なかったのです。それは火事の騒ぎの後で熟睡してしまった人が多く、また二十数年来水害がなかったことや、大半の人が「たぶん大したことはないだろう」と油断していたからだと思われますが、後になってそれが残念で仕方がありません。

午前5時を過ぎた頃、東の空が少し明るくなり、堤防が霧の中から見え始めた瞬間、うす黄色い泥水が滝のようにあふれているのが見えて「あー、もうダメか…」と思いました。結局、消防団員の徹夜の死守にもかかわらず、6時40分、樽川堤防は決壊してしまいました。千曲川本流の水は木島地区全域に逆流、濁流が津波のように押し寄せ、木島の平を一挙にのみ込んでしまいました。そのとき、私は自然の猛威の怖ろしさをただ呆然と眺めていたことを今でもはっきり覚えています。

私の家族は無事親戚に避難させてもらいましたが、ちょうど1年前に新築したばかりのわが家は、床上1.4mまで浸水。近所では、逃げ遅れてボートで救助された人もいました。

台風18号では、木島小学校をはじめ706世帯と木島工業団地一帯の浸水、収穫を目前にした482ヘクタールの耕作地の冠水、204頭の乳牛の溺死など、被害額は推定81億円。後にその数字を知らされたとき、再び身が震える思いでした。生涯忘れることのできない大惨事でした。

水が引けた後に残ったのは大量のゴミの山。幹線を通行止めにして、自衛隊が丸2日間かけてトラックでかたづけるなど、多くの方が自分の過労をおして救助や復旧に協力してくれたことはとてもありがたく、人の力の素晴らしさ、偉大さを痛感しました。

その後、「もう二度と切れない堤防が欲しい」という願望のもと、地区民が一体となって県や建設省へ力強く働きかけた成果が実り、激甚災害対策特別緊急事業として認められ、樽川堤防は総額78億円をかけて全面改修されることに。そのため天神堂古川に代々住んでいた5軒の方々は転居を余儀なくされましたが、率先してその買収に応じられ、翌昭和58年から改修工事が開始され、災害から5年後の昭和61年、念願の樽川堤防が完成しました。

当時はまだ50代、田や畑で働くことは生き甲斐でした。豪雪地で育った根性で、地域の立て直しや災害記録集のとりまとめ作業、それに並行してわが家の復旧作業を死にものぐるいでやってきました。いざというとき油断は禁物、家庭においては水や食料の確保と整理整頓が大切であることを災害から学びました。

 

教訓
伝えたいこと

油断は禁物、家庭において水や食料の確保と整理整頓が大切。
◆救助や復旧には人力が不可欠、災害で人の偉大さを痛感した。

親から子へ災害の記憶を語り継いでいこう。

飯山市S.Iさん(当時45歳・酪農)

 

9月12日夜11時、数日来降り続く雨のなか、天神堂に火災が発生しました。私は炊き出しの手伝いをして帰宅すると、すでに13日深夜2時過ぎ。最悪の事態を心配しながら、ほんのわずか仮眠した後、夫と二人、当時22頭いた乳牛の搾乳を急ぎました。

朝5時、近所の消防団員から避難準備をするように言われましたが、「昭和34年くらいの増水だから大丈夫だろう。もし牛を避難させるにしても、すぐ目の前が樽川の堤防だから条件はいい、搾乳が終わり次第避難しよう」と、その程度に思っていました。

搾乳が半分も終わらないうちに「堤防が切れたぞ!」という知らせが入り、どうしようと考える間もなく、水が津波のように押し寄せてきて、目の前の道路の舗装を瞬時に浮き上がらせ、ずたずたに切れた畳1枚ほどもあるアスファルトの厚い固まりが、牛舎の入口のサッシを打ち破って畜舎の中に飛び込んできました。

夫は綱さえ切ってやれば泳いで逃げるだろうと必死で牛舎の中を泳ぎまわりましたが、激しい水勢に阻まれてどうすることもできません。牛は目の前で苦しみ、もがき、悲しそうなうめき声を上げていました。私たちもアッという間に胸まで水に浸かり、危険を感じてあわてて堤防へ逃げ上がりました。

築3年目の母屋は床上2mまで浸水、家財や農機具はもとより、家族同様にかわいがり、また生活の糧であった牛すべてを濁流の中に亡くしたわが家は、まさに壊滅状態でした。「牛をもっと早く安全な場所へ避難させればよかった、牛よ許しておくれ」と後悔しきり。いやというほど水を飲み、力尽きて泥海に沈んだ牛たちの姿と悲しい鳴き声が耳に焼きついて消えません。それはまさに生きながらの地獄、数日間はただ呆然として途方に暮れてしまいました。この災害により、木島地区では204頭の牛が犠牲になり、飼い主はみな涙を流しました。こんな切ないことが夢でなく現実にあったのです。

大勢の方の力を借りて後かたづけが終わり、ようやく普通の暮らしができるようになると、夫は「もう一度頑張ってみよう」と借金して牛10頭を購入。牛たちに二度と悲しい、苦しい思いをさせたくない、その一念で必死に働いて再建に取り組み、何年もかけ頭数を増やし、規模は小さいながらも酪農を復活させることができました。

その後夫は他界、今は息子たちと三人暮らしになりましたが、少しでも雨が降り出すと台風18号の苦い経験を思い出し、仏様と貴重品、それに食料をまとめるようにしています。水害では悲しい思いをしましたが、その反面、家族の絆と人の心の温かさ、そして助け合いの気持ちの尊さをしっかり感じました。今40代の人はかろうじて水害の記憶がありますが、若い世代になるほどだんだん記憶が薄れています。今後いざというとき困らないために、親から子へ、災害の怖ろしさを語り継いでいくことが大切と痛感しています。

 

教訓
伝えたいこと

少しでも雨が降り出すと、仏様と貴重品、食料をまとめるようにしている。
◆いざというときのため、親から子へ災害の恐ろしさを語り継いでいくことが大切。

お問い合わせ

危機管理部危機管理防災課

電話番号:026-235-7184

ファックス:026-233-4332

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