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更新日:2021年11月29日

(5)三六災害

(5)三六災害(梅雨前線豪雨、昭和36年6月)

被害地域
県内全域(特に下伊那郡大鹿村)
被害状況
人的被害(人):死者107/行方不明29/負傷1,164
住家被害(棟):全壊903/半壊621/床上浸水3,170/床下浸水15,351

ふるさとの景観を一変させてしまった災害

駒ヶ根市K.Sさん(当時30歳・会社員)

 

あの当時、土建会社に勤めていた私は、梅雨時の暇な時期で工事も少なかったこともあり、会社関係のお宅の田の草刈りを手伝っていました。家から会社に電話があったのは夕方の5時半頃だったと思います。自宅の近くには農水路が流れていて、それは県道をくぐって新宮川へ注いでいました。その農水路の水位が上がりだし、前の家では浸水が始まっているというではありませんか。

にわかには信じられずに、「様子をみて、もう一度後で連絡をくれ」と妻にいって電話を切りました。再び電話があったのが6時頃です。「新宮川の水位も上がってきた」といいます。さすがに心配になり家に帰りました。

家の付近までくると、本川の天竜川の水位はさほどではありません。どうやら小さな支流があちこちではん濫しているようなのです。私は会社に電話を入れ、「心配したほどのことではなかった。消防団のほうも警戒にあたってくれているし、大丈夫だとは思うが、家にいることにする」と伝えました。

新宮川の水位はふだん膝のところまでもありません。私にとっては子どもの頃からの遊び場で、なつかしいふるさとの風景でもありました。魚も多く、河畔には柳が茂り、すばらしい景観の川だったのです。その川が一変してしまったことに私はひどくショックを受けました。災害の後、父たちに聞くと昭和13年にも一度、その前にも一度荒れたようです。でも私にとっては少年時代の記憶のままの「ふるさとの川」でした。

川からあふれ出した水は次第に集落を飲み込んでいき、当時家にいた私と妻と父は、私たちの子どもを安全なところに預けて、3人で屋根に登りました。水と砂はザーッというすさまじい音を立てながら流れていきます。その後、隣の地区の集会所にお世話になり、避難生活を続けたのですが、これからのことを考えるゆとりなどなく、ただぼうぜんと過ごすだけでした。落ち着かないので表に出て、いつになったら完全に水が引くのか心配になって見ていました。水が引いた後、私たちの家は天井から30cmのところまで水がついてしまい、とてもこの後住めるような状況ではなかったのです。

子どもの頃から慣れ親しんだ土地を離れ、今の場所に越してきたのはお盆の頃でした。天竜川を挟んで対岸になります。そのとき、私たちが暮らしていた集落の背後の山があちこちで地すべりを起こし、無残にも真っ赤に禿げ上がっているのを見ました。三六災害は戦中戦後の供出で山の木が乱伐され、土砂や水を抱える力が山になかったために起こった災害といわれています。それほど、山の崩壊は悲惨な状況でした。昔から慣れ親しんだ川もそして山も、私がふるさとの風景と描いていたものが、この災害ですべて失われてしまいました。

三六災害の後、新宮川の川幅は広げられ、落差工も完成しました。しかし、あのときのような災害を防ぐためには、総合的な治山事業が大切だと思います。里山には雑木を植え、上流対策では山づくりも含めた砂防対策が必要ではないでしょうか。そして、万一のときは、どんな人がどんな役割をもって現場の対処を行うか、日ごろから連携できるようにしておくことが大切だと思います。

 

教訓
伝えたいこと

山づくりを含めた砂防対策など、総合的な治山・治水対策が必要。
◆どんな人がどんな役割を持つか、日ごろから連携できるようにしておく。

地形的にも地質的にも砂防ダムは必要

駒ヶ根市Y.Kさん(当時30歳)

 

この年は空梅雨だったのですが、台風6号で梅雨前線が刺激され、伊那谷では6月23日頃から雨が降り続きました。26日には駒ヶ根市大田切で187.5mm、27日には同市赤穂で154.4mmの雨を記録しています。

私の住む中沢集落は天竜川の左岸、新宮川沿いにあります。降り続いた雨で山は地盤が軟弱になり、しっかりした木もなかったことから、27日にはあちこちで“山抜け”が発生しました。新宮川に注ぐ唐山沢、猿沢ではとりわけ土砂を含んだ水が大量に押し寄せました。山が抜けるときは、空気全体が変なにおいをさせています。水害というより山崩れといった表現のほうが的確かもしれません。これから山が崩れるという予兆なのでしょう。そのにおいが私には不安でたまりませんでした。

この災害で中沢の上割地区は、それまで120戸あった家が60戸に減りましたし、落合から南海にかけては、30戸のうち半数が流失しました。人的被害も出ています。大洞では5人の尊い命が失われてしまいました。ほかにも、新宮川発電所や稚蚕飼育所、路線バスの流失がありました。

私の家は幸い高い場所にあり、新宮川の被害は田畑のみで済みましたが、家のすぐ脇を流れる南海の沢がやはり荒れ、水車小屋や作業所が流され、本宅も床下まで水がつきました。今でもその傷跡が土蔵の壁に残っています。当時家にいたのは私をはじめ6人でした。押し寄せる土石流から逃れるために、生まれたばかりの下の子を抱いて山のほうへ一家で走りました。水が引いた後、重機など十分にない時代ですがら、家の復旧にずいぶん手間がかかったことが思い出されます。

このあたりは、地質的にみてももろい土壌の場所だといわれます。また川幅も狭く、十分な護岸もありませんでした。そこへ今までにない豪雨です。さまざまな悪条件が重なって、大災害になったのだと思います。

ですから、まずそこに暮らす人たちが地域の地形地質について知識を持っていることが必要です。これまで中沢は災害の心配のない地域でした。ですからこの山間の地に、「三六災害」のときまで集落がかなりまとまったかたちであったのです。しかし、当時のように悪条件が重なった場合、予測だにできないことが起こる、そのことは土地の事情とともに把握しておかなくてはいけないと思いました。

そして災害から生活を守るためには、森林整備だけでは十分でなく、砂防のためのダムが絶対に必要だということです。同時に川幅を広げ、護岸を築くことも重要です。三六災害後に新宮川には砂防ダムがつくられましたが、そのおかげで昭和58年の大雨のときは大災害にならずに済んだのだと思います。

そして、砂防ダムをつくった場合、そのダム機能を維持するために、しゅんせつ工事なども継続して行っていくことが求められます。暮らしのためには、それに見合う条件整備がどうしても必要なのです。昭和58年の折、新宮川の土砂をせき止めた砂防ダムは、私たちの生活を救ってくれたかわりに、土砂がかなり堆積しました。これは裏を返せば、必要なところに必要なものをつくったということではないでしょうか。

 

教訓
伝えたいこと

山が抜けるときは、空気全体が変なにおいをさせる。
◆自分たちの暮らす地域について、その地質などを知っておくことが必要。

あのときお世話になった方々のご恩は忘れません

下伊那郡大鹿村S.Iさん(当時38歳・保育士)

 

あの頃、私は村の保育所に勤めていました。春から秋にかけての農繁期、役場ではバスで子どもたちを集めてその保育所で面倒を見てあげることにしていたのです。保育所は6月27日から大雨のため休みでしたので、私は子どもたちの大切な資料を持ちかえり、家にいました。29日は雨がやんで晴れ間が見えていましたので、今のうちに炊事用の灯油を買いにいこうと私は家を出、農協に向かいました。家には主人と子どもたちが残っていました。

灯油を買って家に戻る途中です。目の前の大西山が、屏風が倒れるように水煙を上げて落ちてきました。私は子どもの頃、大西山には仙人が住んでいるから、あの山は悪いことはしないと年寄りから聞いていました。その大西山がまるで怒りにかられたように石も土も一斉に吐き出しているんです。何が何だかわからずに、私はとにかく家に帰ろうと道を急ぎました。

途中、急きょ招集を受けたであろう村の議員さんたちが駆け上がってくるのが見えました。彼らは口々に「早く上へ逃げろ」と叫んでいます。私は慌てて山のほうへと逃げ、田んぼに飛びこんだのです。そうしている間にも、土砂は対岸のこちらまでやすやすと押し寄せてきます。足は田のぬかるんだ土に捕らえられて動けません。まず、買ってきたばかりの灯油を捨てました。それから、これは借り物だからと離さずにいた傘を手放しました。

ほうほうのていで一命を取りとめ、正気に戻ったときに、私たちの家が跡形もなく流されてしまっていました。「うちがなくなっちゃった」。呆然とした私ですが、家族がどうなったか心配でなりません。本家にたどりついて主人と子どもの顔を見たとき、ほっとして体の力が抜けていくのを感じました。

一つの集落が壊滅し、着の身着のままの私たちを勇気づけてくださったのは、山手の集落の人たちです。高いところで米が思うようにつくれないにもかかわらず、大切にしまっておいた豆やイモや麦や炭を惜しげもなく使って、中には、なけなしの砂糖も持ち出し、私たち家族を食べさせてくれました。人間の優しさをこれほど感じたことはありません。人の助け合いの大切さを心から感じたことはありませんでした。いまでもあのときのことを思うと涙が出ます。

あの災害のとき、私は妹を亡くしました。妹も逃げようとしたのですが、逃げきる体力がなかったのでしょう。あの大量の土砂と水にのまれてしまいました。災害にあって助かるかどうかは運もあります。しかし、逃げきろうと必死になるとき、「生」に執着する体力も大事だと痛感しました。

そして今思うと、大西山の崩壊には私たち村人の責任もあったかもしれません。なるべく田を広げようと、小渋の流れを山のほうに山のほうに押しやっていったのは人間ですから。水の流れは知らないうちに大西山の土台を削っていたのでしょう。

 

教訓
伝えたいこと

惜しげもない援助はとてもありがたかった。人の助け合いの大切さを心から感じた。
◆山地の崩壊には、むやみに地形を変えようとした住民の責任もあるのではないか。

広葉樹の造林を積極的に進めてほしい

下伊那郡大鹿村Y.Nさん(当時25歳・役場職員)

 

釜沢生まれの私は、当時上市場の公民館の隣に下宿し、大鹿村役場の林務課に技術者として勤めていました。6月27日、まず村の北部・北川の集落がほとんど流失したとの知らせを受けました。翌28日は青木谷がやられたとの報告です。いったい村はどうなってしまうのかと思いました。

29日、「誰か北川へ様子を見に行け」と声がかかり、私を含めて3人が北川集落へ向かいました。といっても、道路はすでに寸断されています。山越ししか手がありません。鹿塩川の左岸の山を登り中峰に着いたとき、私たちは大西山が崩壊するのを目撃しました。大変なことが起こっているとは認識していましたが、ここからでは何もわかりません。私は仲間とともにさらに山を登り、黒河山から大花沢を経て北川へと向かいました。

北川の集落を目の前にしましたが、とても近づける状況ではありません。それに3人では何もできません。集落の人もここへは降りられないから帰れと叫んでいます。むなしい思いを抱えながら、私たちは引き返しました。役場まで戻ったのは夜中の12時過ぎでした。間近に大西山崩壊の現場を見た私たちは、ここが自分の村だとはにわかに信じることができませんでした。それほどの惨状だったのです。

この災害があるまで大西山が崩れるなどとは誰も考えていませんでした。心配していたのはむしろ反対側の相久保沢です。役場の職員も災害があるならここだと予想していましたが、自然は人間の憶測を超えていました。

翌朝、私は飯田市へ報告と救助要請に向かいました。通信手段は断たれ、道路も使えません。やはり山を越えていくしかありませんでした。役場からはすでに北川や青木谷の被害報告に向かった人間もいましたが、大西山の崩壊とその被害については村の人間以外知りません。そして村は孤立しているのです。朝5時に出て、もどかしい思いで飯田に着いたのは夜の10時でした。

あれから40年がたち、今まで国などにより村には治山治水工事があちこちに施されました。雨量のみをとればこの「三六災害」のときより、昭和58年のときのほうが多かったにもかかわらず、被害が出なかったのはそのおかげです。

しかし、林務で18年勤めてきた私の経験からお話しすると、根張りの強い広葉樹をもっと山に植えるべきだと思います。カラマツによる造林については自ら携わったものとして反省するところがあります。針葉樹と違い広葉樹は、伐採したあともその切り跡からまた芽が出て育っていきます。地表植物も針葉樹の林に比べて豊富です。もっと広葉樹の造林に力を注いで、山そのものの体力を育ててあげることが大事ではないかと考えています。

 

教訓
伝えたいこと

災害後の治山・治水事業により大きな被害が減った。
◆広葉樹の造林に力を注いで、山そのものの体力を育てることが大事。

お問い合わせ

危機管理部危機管理防災課

電話番号:026-235-7184

ファックス:026-233-4332

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