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更新日:2020年3月18日

農業試験場

農事試験場の沿革

組織の変遷

明治

  • 明治30年上水内郡芹田村に創立される

大正

  • 大正5年種芸部、園芸部、病理昆虫部、分析部、農事講習部の5部制確立
  • 大正8年病理昆虫部を菌虫部、分析部を農芸化学部と改称、農事講習所設置
  • 大正10年長野市中御所に移転

昭和

  • 昭和10年冷害試験地を原村、柏原村に設置
  • 昭和16年飯山試験地を蚕業試験場飯山雪害試験地に併設
  • 昭和26年農事試験場を農業試験場と改称
  • 昭和34年病理部、害虫部を統合して病害虫部とする。土壌改良部を農芸科学部に統合
  • 昭和41年豊科試験地を廃止
  • 昭和47年中南信地方専門技術員室併設
  • 昭和51年長野県農業総合試験場農事試験場と改称されるとともに、作物部、病害虫部、土壌肥料部は現在地に移転
  • 昭和55年長野県農事試験場と改称

平成

  • 平成元年育種部を設置
  • 平成4年飯山試験地を閉鎖
  • 平成9年創立100周年を迎える
  • 平成14年病害虫部と土壌肥料部を統合し、病害虫土壌肥料部とする

 

 

創立60周年記念

創立60周年記念(昭和32年)時の風景

 

農芸化学部実験室

農芸化学部実験室(昭和34年)

 

 

麦播種風景

麦播種風景(昭和50年中御所)

 

平成5年冷害

平成5年冷害を県知事視察(原村試験地)

研究の歴史

創設期

明治30年の創立当時の水稲の栽培面積は全国で約270万ha、収量は220kg/10a、長野県の作付面積は6.6万ha、収量は260kg/10aであった。麦類の長野県の作付面積は、大麦2万ha、収量は220kg/10a、小麦2.5万ha、収量は120kg/10aであった。
このように当時の栽培面積は多かったが、農家の耕種技術はきわめて稚拙で収量も低く、不安定であった。そこで、水稲では、育苗、選種、施肥量等の広範な試験が開始された。とくに、塩水選の効果を水稲、麦などで実証し効果をあげた。

品種面では、県内外から在来品種を集めて、その特性調査を実施するとともに県内に適応する品種を選定し、「女渋」「渋浚」「珍光」などを一般に奨励した。

土壌肥料関係では、主に自給肥料を中心とした試験が開始された。明治40年に鉱毒水あるいは酸性土壌が問題となり、潅漑水の調査や酸性土壌調査が行われた。

病害虫関係では、いもち病、ニカメイチュウ、貯穀害虫、燻蒸剤の試験及び麦種子に対する冷水温湯浸法の実用化、ボルドーの散布による病害防除試験が行われた。

明治31年から開始された豊凶考照試験は、名称はかわったものの現在まで継続し、その時代の品種と栽培法に対する自然的環境の影響を知る貴重な試験成績である。

大正時代

大正時代に入り、栽培研究では、以前のような網羅的な応用試験から収量試験だけでなく生育調査を重視するようになった。各試験についても組織的に行われ、国が品種改良や原種圃採種事業の助成を行うことになった。

品種改良では、大正初期は純系淘汰法による育種を始め、大正11年から人工交配による新品種育成を開始した。

土壌肥料関係では、レンゲの裏作栽培が県下で多くなったため、収量と刈取時期などの試験を行った。また、三要素試験や土性調査も開始した。

水稲害虫関係ではニカメイチュウ、イネツトムシ、トビイロウンカ、セジロウンカなどが大発生し、これらの生態調査を行った。病害では、いもち病がほぼ毎年発生し、大正12年から農商務省委託によるいもち病防除試験を開始した。

昭和初期から終戦期

昭和初期、農業恐慌などにより米価が暴落し、販売競争が激しくなったため、食味、品質を重要視するとともに反収向上と生産費低減のための試験が行われた。小麦では増産5ヵ年計画にそった増収試験に研究が集中した。

社会情勢の変化や災害などが動機となって、環境条件を異にする地域に試験地を設立して、研究を進める機運が高まった。豊科いもち病試験地でいもち病の研究、原村冷害試験地で水稲の冷害試験、またホップ指定試験地が設置され生態的研究が行われた。

国の全国的な育種組織は、小麦では大正15年から、水稲は昭和2年から開始され、県においての品種比較試験は各育成地から送付される系統であり、これらの中から幾多の優れた品種が選定されている。

育成品種では、「信濃糯3号」が粳米より多収の糯米として長い間栽培され、全国的にも著名な品種となった。

土壌肥料関係では、土質がせき薄で、生産性の低い火山灰土壌に対する施肥法を中心に試験がなされた。

病害虫関係では、砒酸鉛の各種害虫に対する防除試験や、麦類雪腐病の防除法を確立している。

昭和16年からは本県指定試験地の成績に基づき病害虫発生予察事業が全国で開始された。また、太平洋戦争に入り、労力不足、資材の枯渇などを背景に、食糧増産と労力を節減する各種試験が行われた。

終戦後の食糧増産期から昭和前半期

この時期は食糧の大増産が督励され、米麦の品種改良、施肥法の研究など時代に対応した課題の転換期でもあった。

昭和29年、外国麦の輸入対応や酪農振興、食生活の改善などから大麦育種指定試験地が設置され、大麦の品種育成が開始された。その後、北陸農試の小麦育成材料を一部引き継ぎ、麦類育種指定試験地となった。

栽培面では、労働生産性の向上の立場から除草労力の軽減方法として2,4-D、PCPなど除草剤の研究を取り上げ、普及に移した。麦でも中耕によるカルチベーターの利用が実用化された。

戦後における農法革新を2つ上げるとすれば、一つは保温折衷苗代と、他の一つは室内育苗である。保温折衷苗代は、高冷地である原村試験地において大苗健苗として普及に移された。室内育苗は、積雪地である飯山試験地において仮植育苗技術としてほぼ10年後に普及に移した。保温折衷苗代は全国的に普及し、早植え栽培法として日本の戦後の収量増加、安定に貢献した。また、室内育苗は、その後の田植機開発の契機となり、省力多収栽培法として発展していった。また、これらの早植栽培法により、水田裏作が減少し、耕地利用率の低下へと進んだ。

土壌肥料関係では、戦争の後遺症として農地の荒廃、極度の食糧難から国としても一気に生産基盤を整備する必要に迫られ、低位生産地調査、開拓地土壌調査、施肥改善調査など土壌生産力を高める研究が進められた。さらに、地力保全調査事業では25haに1点の割合で土壌調査をし、土壌区分図を作成した。

昭和24年から昭和43年まで20年間にわたって、米作日本一表彰事業が実施され、これに関わる調査を実施した。なお、本事業では本県からは8人の受賞者を輩出した。

薬剤防除については終戦後次々と新しい農薬が開発され、効果試験が実施され早植安定省力生産に貢献した。昭和28年の全国的な冷害といもち病の大発生を機に防除薬の有機水銀剤が急速に普及した。その外、殺菌剤ではジネブ剤、殺虫剤ではDDT、BHC、有機リン剤のパラチオン、EPNなどが実用化された。

昭和29年からは主要農作物種子法が施行され、従来の奨励品種決定試験は原種決定試験と名称をかえ、水稲、麦は22カ所の現地試験が実施されるようになった。

 

 



 

 

保温折衷苗代

保温折衷苗代完成した苗代

 

油紙の除去

油紙の除去生育した苗が見える

 

 

現在の苗箱と当時の木箱

現在の苗箱(左)と当時の木箱(右)

 

箱育苗で用いた発芽箱

箱育苗試験で用いた発芽箱

昭和後半期から現在まで

昭和36年には、自立経営農家の育成、農業生産の選択的拡大などを目的とし、農業基本法が公布された。

これまで日本における水稲の生産高は、品種改良や栽培技術の開発により著しく増大した。この間、わが国経済の高度成長により国民の食生活が変化し、米の年間消費量が年々減退し米の余剰米が生じるようになった。政府は昭和45年から米の生産調整を開始し、昭和55年には53.5万haもの減反目標が打ち出された。このため、米以外の作目に比重を移していく「商品生産農業」の研究が実施された。また、うまい米にたいする要望が高くなり、昭和47年極めて良質な品質と食味をもつ「しなのこがね」を育成し、長野県の銘柄品種とした。「しなのこがね」は、最大作付面積1.3万haとなった。

また、昭和53年「コシヒカリ」を奨励品種に採用、昭和55年には「ながのほまれ」を育成し、最大作付面積7,000haとなった。育種方法は交雑育種が主流であったが、昭和50年代にガンマー線照射による突然変異育種法を用い「美山錦」など4品種を育成した。

麦類の品種改良では、小麦品種「ゼンコウジコムギ」の突然変異育種や半数体育種法によるパイオニア的育成地として多くの研究業績を残している。これまで小麦では「シラネコムギ」ほか3品種、大麦では「ミノリムギ」ほか8品種を育成した。「ミノリムギ」は9県で奨励品種となり、全国の大麦作付面積の70%を占めている大品種である。

昭和40年代は稲作技術の画期的改革として、水稲の機械植の研究開発が進み稚苗機械移植技術、中苗機械移植技術が確立した。

この時代はまた、全国至る所で大気汚染、水質汚染、土壌汚染が問題となった。本県でもこのための土壌汚染防止対策調査やカドミニウム汚染、クロム汚染の実態調査を行い、極めてスムーズな行政的対策が実施された。

農薬関係でも、熊本県水俣市の原因不明の病気の発生などから有機水銀剤が問題となり、昭和42年から使用禁止となった。

土壌肥料では、施肥方法の改善を図るため、これまで基肥中心であったが、後期窒素栄養の考えをとり入れた「長野施肥配分方式」を確立した。さらに、施肥位置に関する試験から、側条施肥の有効性を明らかにし、施肥田植同時作業技術を確立した。この2つの技術は全国的な広がりをみせた。

さらに、農業従事者の高齢化や労働力不足などにより一層の省力を進めるため、緩効性肥料による全量基肥施肥法が開発され、水稲の慣行移植栽培にとどまらず、直播栽培、麦作においても有効な技術として今後の定着が期待される。

また、低コストを図るため有人ヘリコプターやラジコンヘリコプターを利用した湛水土壌中直播栽培技術の研究に取組み、大規模稲作経営体を地域に定着させることができた。

病害では、昭和35年から農薬のヘリコプター散布試験が開始され、昭和44年には、13.5万haと最高に達したが、その後環境問題から徐々に減少している。

侵入害虫では、昭和39年アメリカヒロヒトリ、昭和55年にはイネミズゾウムシが全県に広まり、防除試験に取組み成果をあげた。

昭和60年ころから、食の安全への関心が高まる中で化学肥料や農薬、除草剤の施用をできるだけ抑制した栽培技術が求められ、生態系を活用した水稲の持続的生産技術の確立試験を実施した。

病害でも、農薬に頼らない種子伝染性病害防除の確立試験や今後天敵昆虫や有用微生物を用いた、生物防除法の確立をめざし取り組んでいる。

原村試験地では、創立以来高冷地における水稲の栽培試験および障がい型冷害被害軽減試験を継続するとともに、昭和44年以降、水田転換畑導入作物として野菜の試験やりんどう、きくなどの高冷地花きの育種や生産安定技術の開発に取組んでいる。

平成時代に入っての品種改良は、元年から育種部が創設され、水稲の育種体制が強化された。分析機器として、オートアナライザー、インフラライザー、ラピット・ビスコ・アナライザーなどが設置され、理化学的特性による初期選抜が可能となった。この結果、高冷地向けの極良食味品種「信交485号」「信交488号」や酒米品種「ひとごこち」などが育成された。

 

 

ラジコンヘリコプターによる湛水直播

 

ラジコンヘリコプターによる病害虫防除

 

側条施肥田植機

 

 

麦半数体育種

 

水稲葯培養

 

トウモロコシアワノメイガの天敵キイロタマゴバチ(左)

お問い合わせ

所属課室:長野県農業試験場 

長野県 須坂市大字小河原492

電話番号:026-246-2411

ファックス番号:026-251-2357

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