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更新日:2021年12月3日
むかしむかし、松本、安曇(あずみ)の平(たいら)は山々のさわから落ちる水をたたえた湖でした。そして、ここに犀龍(さいりゅう)という者が住んでいました。
また、ここから東の高梨(今の須坂市高梨あたり)というところの池には、白竜王という者が住んでおり、やがて鉢伏山(はちぶせやま)というところで、二人の間に男の子が生まれました。
日光泉小太郎と名づけられた男の子は、放光寺山(今の松本市城山)あたりでりっぱに成長しました。泉小太郎が大きくなるにつれて、母の犀龍は自分のすがたをはずかしく思い、湖のそこにかくれてしまいました。
小太郎は、こいしい母の行方(ゆくえ)をたずね回り、熊倉下田の奥の尾入沢(今の松本市島内平瀬と田沢のさかいのあたり)で、やっとめぐりあうことができたのです。
母の犀龍は、小太郎にしずかに語ってきかせました。「私は、本当は諏訪大明神の化身(けしん)なんですよ。氏子(うじこ)を栄(さか)えさせようとすがたをかえているのです。おまえは、この湖をつきやぶって水を落とし、人の住める平地をつくるのです。さあ、わたしの背中(せなか)に乗りなさい」
言われて小太郎は、母犀龍の背中に乗りました。この地は今も犀乗沢(さいのりざわ)とよばれています。二人は、山清路(今の東筑摩郡生坂村山清路)の巨岩をつきやぶり、さらに下流の水内の橋の下(今の長野市信州新町久米路橋あたり)の岩山をつきやぶり、千曲川の川すじから越後(新潟県)の海まで乗りこんで行きました。
こうして、安曇平の広大なと地ができたのです。そして、小太郎と母犀龍が通った犀乗沢から千曲川と落ち合うところまでを、犀川とよぶようになりました。その後、小太郎は有明の里(今の北安曇郡池田町十日市場)でくらし、子孫(しそん)は大いに栄えたといいます。
(生坂(いくさか)村教育委員会のきょう力をえて、「信府統記旧俗伝」(1724年刊行)から要約(ようやく)しました。)
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