• サイトマップ
  • 文字サイズ・色合い変更

ホーム > 議会の概要 > 議会の沿革

ここから本文です。

更新日:2012年9月8日

議会の沿革

議会の沿革

 宣 言 ・ 決 議

  長野県議会が可決した主な宣言・決議を紹介します。

 歴代正副議長名簿

  長野県議会の歴代の正副議長を紹介します。

長野県・県議会の成り立ちや変遷について概要を紹介します

長野県の成り立ち

 幕末当時信濃の地の管轄は、14藩、幕府直轄地(天領)、旗本領に属するものなど複雑でありました。明治維新により幕府領などが政府の直接支配となり明治元年(1868年)に伊那県が置かれました。明治3年(1870年)には伊那県の管下にある北部6郡が中野県となり、高須藩は名古屋藩に移されました。その翌年には竜岡藩が中野県に移され、中野県は長野県と改められました。

 一方、各藩は明治4年(1871年)の廃藩置県により「県」として発足し、伊那県と長野県を合わせ14県となりましたが、さらにその年、北部の8県が長野県に、南部6県と飛騨一円が筑摩県に統合されました。その後、明治9年に筑摩県庁が焼失したのを機会に合県が行われ、現在の長野県となりました。

写真 第1回通常県会が開かれた長野師範学校講堂

第1回通常県会が開かれた長野師範学校講堂

県会の発足

 明治11年(1878年)、府県会規則が公布され、県会議員選挙の選挙人は20歳以上で郡区内に本籍をもち、5円以上の地租(税金)を納めるもの、議員有資格者は25歳以上で県内に本籍をもち、満3年以上居住し地租(税金)を10円以上を納めるものと定められました。
 翌年、県会議員の定数は45人(16の各郡について郡の大小により2人から4人)と定められ、2月20日、府県会規則による初の県会議員選挙が行われました。(平均得票数1,487票)長野県の第1回通常会は明治12年(1879年)3月26日に開会され、正副議長の選挙のほか、議会議事規則、県会傍聴人心得などが制定されています。開会日数は40日でした。(明治12年県収支決算は歳入38万9,968円余、歳出は36万4,505円余)

議事堂

 県会の議事院(議事堂)は、明治20年(1887年)6月に着工(工費3万6千円余)され、12月21日に落成式をあげましたが、翌朝焼失したため、明治22年(1889年)10月に竣工(工費2万2千円余)されました。

 その後、大正2年(1913年)5月24日、再び焼失することとなり、大正3年(1914年)10月19日に落成した 議事堂(建築費5万4,746円、敷地3,204坪、延建坪473坪)では、昭和43年(1968年)5月に現在の議事堂が落成するまでの50年余にわたり県会(県議会)の論議が交わされました。

写真 明治22年に建てられた県会議事堂

明治22年に建てられた県会議事堂

写真 大正3年に再建された県会議事堂

大正3年に再建された県会議事堂

移庁論・分県論

 長野県会(長野県議会)論議の歴史のひとつとして、移庁論、分県論がありました。

 全国的な府県統合の動きのあった明治9年(1876年)の6月19日深夜、筑摩県庁から火災が発生し、県庁焼失を機会に合県が行われ、新たに発足した長野県の県庁が北に偏在していることが、それ以後の移庁論、分県論が出てくる論拠となっています。

  最初の移庁論は、明治13年(1880年)の第2回通常会で、県庁を県の中央に移すべきだとする趣旨の建議書が提出されましたが、反対派の議員の欠席により県会は流会しました。明治23年(1890年)に提出された移庁建議書をめぐって第13回通常会は一大騒動となりました。
 移庁論賛成の立場に回った反対派議員の宿舎が襲われ暴行を受けた議員が入院するという騒然とした状況となり、県会審議は不可能として賛成派議員は上田に移り、県会の上田開催を要求しました。
 しかし、反対派議員は入院中の議員を議場に担ぎ込み県会の開会を強行し、建議者自らが出席しないため建議書は立消えの扱いとすることを議決しました。

写真 大正3年に再建された県会議事堂の本会議場

大正3年に再建された県会議事堂の本会議場

 賛成派議員は必要な議事手続きを踏まなかったとして議決無効を訴えましたが受入れられず、翌年、松本町・島立村の納税拒否問題や民衆が松本警察署・東筑摩郡長邸の一部を壊す騒擾(そうじょう)事件に発展することとなりました。

 その後、明治41年(1908年)5月の県庁舎焼失を機に松本への移庁論が再燃し、さらに大正15年(1926年)の郡役所廃止のときにも移庁運動が起こっています。

 昭和8年(1933年)4月の臨時県会では県庁を松本市に移すことに関する意見書案が提出され、賛成派議員が反対派議員の数を上回っていましたが、多数の傍聴者(218人)、警戒の警察官の出動など騒然とした中で論議となり、時間切れで県会は閉会となりました。

 戦後、昭和23年(1948年)県庁舎の一部焼失を機に分県論が広がり、第74回定例県議会は予算案の論議が宙に浮いてしまい、議場内であわや乱闘にもなりかねない殺気だった状況となりました。

 分県調査委員会で分県案が可決されたことから3月19日の本会議採決では反対派議員の牛歩戦術により議事の引き延ばしを図り議場は大混乱となりました(賛成派議員30人、反対派議員29人、欠員1人)が、このとき傍聴席から期せずして「信濃の国」の大合唱が起こり、それが機縁となって流会となったといわれています。

 賛成派議員は翌20日に分県に関する意見書を提案しようとしましたが、反対派市民などが賛成派議員の登院を阻止し県議会は空転をつづけ泥沼の様相を示したため、知事が辞任を覚悟のうえで妥協案の調停につとめ知事調停書に調印がなされました。

 4月1日、意見書案が上程され150人の武装警官隊に守られて議事が始まりました。(3月26日に補欠選挙行われ、賛成派議員30人、反対派議員30人) 

 当日、なぜか、議長(反対派)が欠席したので、採決が可否同数になっても議長(副議長)が裁決することになり意見書案は可決されるという読みの中、副議長(賛成派)が議長席に着き無記名投票による採決が行われました。
 予想どおり賛成は29票でしたが、反対は26票しかなく、残り3票は白票でした。

 場内が騒然とする中、議長(副議長)は「賛成、反対、何れも法定得票数の30票に達しませんので、本案は可決、否決何れも決定いたしません。」と宣言しました。

 昭和37年(1962年)、県庁の新築問題を機に移庁論が再燃し決議案が用意されましたが、時を同じにして政府が新産業都市を指定するという政策を打ち出し、昭和38年(1963年)2月定例会では「新産業都市の内陸地帯指定に関する意見書」を政府へ提出するなどして、同年7月、松本・諏訪地区が指定されたことなどから決議案は提案されませんでした。

写真 昭和23年4月1日本会議場の様子

昭和23年4月1日本会議場の様子(松橋久左衛門氏提供)

写真 県庁舎と県議会議事堂

県庁舎(昭和42年落成)と県議会議事堂(昭和43年落成)

  昭和38年(1963年)9月定例会では、新産業都市指定及び県庁庁舎建築等によって生ずる県行政の不均衡について調査し、その是正をはかるための施策を求めることを目的とする「県行政調査特別委員会」が設置され、同委員会は、昭和39年(1964年)2月定例会において「県行政の普遍均等化のために行うべき施策については、その実施について一応の方向づけがなされた。」と報告しています。 また、同定例会では知事から提出された県庁舎建築費特別会計予算案が全会一致で可決され、昭和42年(1967年)2月6日県庁舎本館が完成し、翌年の昭和43年(明治100年)3月31日に県議会議事堂が完成、5月11日に落成式が挙げられました。

お問い合わせ

長野県議会議会事務局調査課

電話番号:026-235-7414

ファックス:026-235-7363

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?