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更新日:2019年4月9日

諏訪地域振興局

諏訪地方一口メモ

1.諏訪の名前

諏訪は古事記では洲羽、日本書紀では須羽と記されており、そののち陬波、諏訪、諏方が混用されていましたが、天保5年(1834年)に高島藩は「今後諏訪と書くべし」と統一をはかりました。

 

2.諏訪高島藩

天正11年(1583年)諏訪頼忠が徳川家康から諏訪をあてがわれ高島藩の基礎を築きました。高島城の築造はその後、日根野高吉の代であり、藩制となったのは、諏訪頼水の代、慶長6年(1601年)のことです。高島藩はそれから明治維新(1871年)まで10代270年にわたり続きました。

 

3.坂本養川(さかもとようせん)

諏訪の新田開発の勢いは元禄のころに一時衰えています。これは開発できる土地がなくなったためではなく、当時の水利用があり合わせのものであったからです。このとき現れて新しい用水体系を模索したのが坂本養川(1736~1809年)でした。養川の一大水利事業は高島藩の混乱期もあって実現までに時間を要しましたが、滝之湯堰や大河原堰など新しい用水路の開削によって水不足は改善され、水稲の収穫高は飛躍的に増加しました。

 

リンク:坂本養川と繰越堰開発

 

4.地質構造

この地域は、様々な地質構造をもつ地域です。本州を東北日本と西南日本に二分する糸魚川・静岡構造線と、さらに西南日本を内帯と外帯に分ける中央構造線が、杖突峠北東で交差している特異な地域といえます。

 

5.堰・汐(せぎ・せんぎ)

長野県の広い地域では、農業用水路のことを自然の河川と区別して、「堰」と表しセギ、センギあるいはセンゲなどと呼んでいます。発音を別にすれば、用水路のことを堰と表す用例は全国的にも多く、東日本、特に東北、北海道や甲信越地方に多くみられますが、この「堰」という言葉自体には本来「用水路」という意味はありません。起源については、取水するために川を堰(せ)き止めるからという説、地を掘り下げて水路を築造することにより地下水脈が分断される(堰き止められる)からという説などがあります。諏訪地方では、堰に「汐」(まれに「田川」)の文字を当てて「センギ」と呼ぶことが多いようです。富士見町史によれば、堰に「汐」の文字を当てるようになったのは、高島藩成立期ごろであろうとされています。画数の多い堰の文字に替えて同じ音を持つ汐の文字を使うようになったのだろうと容易に推測がつきます。なお、松本平の一部地域では、つちへんに夕の文字を当てている例もみられます。

 

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所属課室:長野県諏訪地域振興局農地整備課

長野県諏訪市上川1-1644-10

電話番号:0266-57-2914

ファックス番号:0266-57-2918

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