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更新日:2017年1月15日

信州の歴史 古代

古代
~信濃の国ができたころ~

 

屋代木簡
郡司の命令が書かれている
屋代木簡114号(複製)
 今から約1千3百年前ごろ、日本では中国から学んだ律令制度によって政治が行われるようになりました。奈良の都を中心に全国は60以上の国ぐにからなり、信濃国もその一つとなりました。信濃国内は10郡に分れ、政府から派遣された国司のもとで地元の有力な豪族から選ばれた郡司が各郡の政治を行いました。千曲市の屋代遺跡群からは当時の国司や郡司の命令が書かれた木簡という木の札がみつかっています。
 人びとは国や郡に税として稲を納め、国司や郡司に従って特産物を都に運びました。なかでも麻布は信濃国の特産で、奈良市の東大寺の北にある正倉院には、信濃産の麻布や、それでつくられた布袴が今でも伝わっています。また、有数の馬の産地であった信濃には、各地に牧が設けられ、多くの良馬が生産されました。選ばれた馬たちは、信濃を含む東国と都とを結ぶ東山道をとおって都へとひかれていきました。身分の高い貴族の邸宅で信濃産の馬が飼われていたことを示す木簡もみつかっています。
 

 

緑釉陶器・灰釉陶器・八陵鏡
緑釉陶器・灰釉陶器・八稜鏡
(塩尻市吉田川西遺跡 長野県立歴史館蔵 重要文化財)
 約1千2百年前には今の京都市に都が遷りました。この平安時代には、郡司などの豪族たちに加えて、信濃国各地で豊かな財産を蓄えた農民たちが力をつけていきました。彼らは村をまとめ、都の貴族や大寺社が信濃に所有する領地を管理したり、税の徴収などに関わるようになりました。塩尻市の吉田川西遺跡では、こうした有力者の墓から当時の立派な陶器や鏡などが見つかっています。やがて彼らは領主となり、馬や武器を携える武士へと成長していきました。

 

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