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更新日:2020年4月16日

信州の歴史 中世

 

中世
~いくさとやすらぎ~

 


鳥羽院庁下文
(重要文化財)

鎌倉時代の善光寺門前
(長野県立歴史館展示)

 良馬の産地である信濃では、武士たちは強力な騎兵として力をふるいました。
 源平合戦に際し、信濃で挙兵した木曽義仲は、平氏政権を倒し、武家政権樹立の先駆けとなりました。義仲軍で中心的な役割を果たしたのは信濃の武士たちでした。しかし義仲の急進性は、結局、公家や武家に受け入れられませんでした。
 鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝は、公家と武家の共存の道を選び、信濃の武士団は関東出身の有力御家人の支配下となりました。
 鎌倉幕府の執権北条氏が守護として信濃を支配するようになると、北条氏のいた塩田平には「信州の鎌倉」と呼ばれるような禅宗文化が栄えました。北条氏は、信濃の武士団をとりまとめるために、善光寺や諏訪社に対する信仰を利用しました。そのこともあって、この時代、善光寺や諏訪社は全国にその信仰を広げたのです。
 鎌倉幕府が倒れ、南北朝時代、室町時代になると、諏訪氏や村上氏などの国人たちは鎌倉府と結んで、京の室町幕府や守護小笠原氏の支配に抵抗しました。とりわけ、1400年におこった大塔合戦は、信濃の国人らが一揆を組み、小笠原氏を守護の地位から追い落とした戦いでした。自立性の強かった信濃の武士たちのもとでは、ついに守護による信濃の安定した支配が実現せず、いち早く戦国の争乱へと向かうことになりました。
 戦国時代になっても、信濃出身の戦国大名は育たず、甲斐の武田氏と越後の上杉氏が信濃の支配をめぐって、激しく対立することになりました。

 

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